青蓮院門跡は、比叡山延暦寺が開かれる際に、僧侶が住む場所として造られたのが初まりで、1150年に現在の場所に建立されました。
また、住職が皇室の関係者によって受け継がれ、大変格式の高い寺院であったということから「門跡」という名前がついています。
入り口にそびえ立つ貫禄ある楠は、樹齢800年と言われています。敷地内には同様の楠が5本あり、長きに渡って、青蓮院門跡の歴史を見守り続けてきたのでしょう。
建物内には、色鮮やかな蓮が描かれたものをはじめとした数多くの襖絵が展示されており、それぞれの部屋で観賞を楽しむことができます。
約1200年前、桓武天皇がこの将軍塚から京都の地を見下ろした際、ここを都にすると決め、京の都の長い歴史が始まったと伝えられています。現在も、将軍塚にある大舞台から一望できる京都市内のパノラマは圧巻で、夕暮れ時には沈みゆく夕日の景色が非常に美しく映えます。
また、将軍塚には、日本の仏教絵画の最高傑作として国宝に指定された「青不動」が保管されている、青龍殿があります。青不動は、燃え上がる炎の中に気迫ある青不動明王の姿が絹に描かれた非常に繊細なもので、現物は温度や湿度を保って大切に保管されているため、精密に複製された青不動が展示されています。
複製ながらも、その迫力を十分に感じることができます。
不動明王樣
いつもお助けいただきまして誠にありがとうございます
青蓮院(しょうれんいん)は、阪急 京都河原町駅の北東1.6kmほどの京都市東山区粟田口三条坊町に伽藍を構える天台宗山門派の寺院です。
梶井(現・三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院です(天台三門跡)。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきました。
日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られます。
比叡山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院がその起源となっていて、比叡山東塔の南谷(現・延暦寺第三駐車場)にあった最澄が建立した青蓮坊がその起源です。青蓮坊は慈覚大師円仁、安恵、相応などの著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊でした。
山下に移ったのは平安時代末期で、青蓮坊の第12代行玄大僧正の時で、移転先は現在地のやや北西にあたる三条白川の地です。久安6年(1150年)鳥羽上皇と皇后美福門院は行玄に帰依して青蓮坊を祈願所としました。
鎌倉時代になると三条白川の地にあった当院は、白川の氾濫を避けて高台となっている現在地へと移りました。
天明8年(1788年)天明の大火で内裏が焼失した折には、青蓮院が後桜町上皇の仮仙洞御所となったため、青蓮院旧仮御所として国の史跡に指定されています。
『絹本著色不動明王ニ童子像(青不動:国宝)』は、平安時代後期の仏画で、平成26年(2014年)に飛地境内の将軍塚に大護摩堂「青龍殿」が完成しました。
園城寺(三井寺)の「黄不動」、高野山明王院の「赤不動」とともに三不動といわれています。現在、青龍殿に祀られているものは複製品であり、国宝本体は青龍殿奥殿に安置されています。
『熾盛光堂(しじょうこうどう:本堂)』は、境内の南側に西面して建つ方三間、宝形造の堂です。
堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅を安置しています。熾盛光如来とは仏頂尊の一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊ですが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しいです。本堂の東裏には国宝の青不動像の小さな複製が安置されています。
『宸殿』は、小御所の西側に建つ入母屋造、桟瓦葺きの寺内で最も大きな建物です。もとの宸殿は後水尾天皇の中宮である東福門院の御所が朝廷より寄進され、移築されたものでしたが、明治26年(1893年)に焼失し、後に復興されました。
「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇と歴代門主の位牌を祀る堂です。障壁画の浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されています。
『植髪堂』は、境内の北方に建てられています。親鸞が得度した際の髪が木造親鸞童形像に植えられているとされ、それを祀っています。地下は納骨堂になっています。
宝暦9年(1759年)に建立され、明治13年(1880年)に現在地に移転されました。
天台宗(てんだいしゅう)は、中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつで、妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とするため、天台法華宗とも呼ばれます。名称は、実質的開祖の智顗(ちぎ)が天台山に住んでいたということに由来します。
入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、比叡山延暦寺を創建し、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出しました。
最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起きましたが、最澄の没後に清和天皇により大乗戒壇の勅許が下りました。正暦4年(993年)円珍派と円仁派との対立が起きて、比叡山を降りて園城寺を拠点とした円珍派「寺門派」と比叡山に残った円仁派「山門派」に分裂しました。平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれています。
天台宗山門派は、法華経の円教を中心とした円・密・禅・戒の四宗兼学を唱えますが、天台寺門宗はこれに修験道を加えて、円・密・禅・戒・修験の五法門となります。この法門をくぐり「顕・密・修験三道鼎立」を目指し、「上求菩提下化衆生」を行っていくという教義です。

2025.9
「せいれんいん」ではなく
「しょうれんいん」だそうです
天台宗の開祖である最澄が比叡山に開いた僧坊「青蓮坊」が起源だそうで
平安時代末期に、鳥羽天皇の皇子がこの青蓮坊に入寺したことで門跡寺院となり江戸時代の京都大火の際、後桜町上皇の仮の御所となったことから、「粟田御所」とも呼ばれています
祇園や八坂神社からも徒歩圏内にあります
平安神宮に繋がる道から少し中に入ってるからか京都屈指の観光エリアにありながら比較的落ち着いて観光できます
それでいて、素晴らしい庭など見所も沢山あるので良いですね
後桜町上皇が仮御所としていらした寺院。
拝観券自体に菊の御紋が印刷されている。
降雨の後なので苔が瑞々しく、青紅葉が綺麗。
庭園は広いわけではないが、街の中であると忘れさせてくれるほど。
有名観光に近いにも関わらず空いているのでかなりオススメ。
静かで、美しくて、良い場所でした(*^^*)
どちらかというと美術館にいるような感覚でした。また行きたいです!