5世紀初頭(401〜420年)3段築成の前方後円墳
墳丘長・体積とも大仙陵古墳に次ぐ全国2位の大きさ
西側のみ二重の濠(更に三重目の濠の痕跡を確認)葺石 造出あり
墳丘長約425m前方部幅300m高さ36m後円部直径250m高さ35m
応神天皇陵がなぜ当地にあるのか?
神功皇后 三韓征伐の帰路 北九州にて応神天皇を出産 忍熊王の皇位継承の企てを察知していた一行は難波を目の前にして 戦いを武内宿禰他に任せ 幼少の応神天皇を連れた神功皇后は隠密に現・大阪市平野区の楯原の地(式内楯原神社辺り)に身を寄せます
此の地は父親の息長宿禰王の深い縁戚(大々杼氏)の地であり 護衛を得て近江(父親)越前(母親)への里帰りを決断します 父の墓前(古墳)へ帰国の報告 孫の顔見せ…権力闘争の最中 神功皇后といえども 人の子 母親 人情味溢れる一面です
忍熊王の反乱の収束を知り 里を後にした一行は楯原を経由の後 権力闘争の火種の残る大和へ向かうべく幼少の応神天皇を誉田の地に預けるのでした
当地も又 父親の里 息長氏と極めて近い血縁の地 品陀真若王(ほむだのまわかのおう)を長とする品陀一族が居住
応神天皇は去来紗別(いざさわけ)又は大鞆和気(おおともわけ)と言われて育ち
(気比神社の神話は抜きにして) 品陀真若王の娘達3人に婿入りして品陀別尊を名乗りました
※鞆も品陀も意味は同じで方言や時代による違い 大鞆和気とし名前に大和を入れ別系統の血筋を隠蔽したのでしょうか🤔
即位後は現・奈良県橿原市大軽町周辺に置かれた軽島豊明宮で行宮に現・大阪市東淀川区大桐周辺の大隈宮が当てられているのが有力ですが
崩御後 天皇の心が一番安らぐ ゆかりの当地に葬られたということです
応神天皇陵として知られる誉田御廟山古墳「こんだごびょうやまこふん」
堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ日本で2番目に大きな前方後円墳(体積では日本最大とも言われるそうです)とのことで、その圧倒的なスケールを体感しに訪れました。
現地はきれいに整備されていて厳かな空気が漂っていますが、神聖な御陵のため観光地化はされておらず、専用の駐車場も見当たりませんでした。
近くで見ると大きすぎて「山」にしか見えないので、普通に歩いて観光をしようとすると少し大変かもしれません。
そこで今回は、日曜日でも開放されていた羽曳野市役所の駐車場に車を停め、そこから自転車で古市古墳群を巡ることに。
これが大正解でした!
自転車なら小回りが利きますし、世界遺産である巨大な古墳の周りを風を感じながらサイクリングするのは最高に気持ちよかったです。
歴史の大きさを肌で感じられる素晴らしい散策になりました。
世界遺産『百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群』構成資産の一つ。全国で2番目に巨大な前方後円墳です。拝所は広く感じられました。最近大仙陵古墳を気球で上から見れるようになったのでこちらもいつか見てみたいなぁと思っています。
巨大古墳あるあるで、とにかく大き過ぎて全貌がよく分かりません。
が、前方後円墳の前方の拝所は荘厳な雰囲気に満ち、後方の応神天皇を祀る誉田神社からは祭事の際に御霊を神輿に載せて渡御する反橋があります。
ただの古墳に非ず、信仰そのものなんだと思いました。
周りの古墳のように、簡単にお城に利用されなかったのも分かる気がします。
八幡大神である応神天皇の御陵。
グーグルナビで向かうと古墳東の住宅地を示しますが、そこに奉拝所はなく、陵北部の宮内庁書陵部がある場所が奉拝所です。